吾唯足知
先日の家人との会話より
「(M1 Macbook air 用に)マウスとハブを買おうと思うんだ」
「そんな動物はダメ!」
「買う」と「飼う」は文字に書き起こさなければ違いがわからないけれど、一体どこでどうなったら、僕が全長2mにも及ぶクサリヘビ科の毒蛇の飼育に興味を持つのだろう?
思い返せば、確かに僕にはある日突然何か新しいことをなんの脈絡もなしに始めるということがあった。これは単数ではなく複数回に及ぶ。たとえば2014年の夏に水泳を始め、翌年バタフライに挑戦してほぼ独学でマスターしたり、2017年の秋に突発的にマラソン大会にエントリーして市民ランナーデビューを果たしたり、去年はあれだけ嫌っていたTOEICに挑戦したり。これがここ最近の迷える小市民の前科だったりする。このままだと来年はポール・ダンスに挑戦してしまう可能性も否めない。
その軌跡は新雪に刻まれた轍のようなものだが、後期のブラマンクの絵画と決定的に違うのは、とにかく蛇行していてどこか頼りなく、そこからなんの方向性も見出せないことだ。御者自身、未だ目的地が定まっていないまま馬の本能に多くを委ねているだから仕方がない。
でも、たとえこの先、仮に地軸がねじ曲がってマンゴーの栽培適地がカムチャッカ半島にまで拡大したとしても、爬虫類をペットにすることはまずないだろう。
となると、先の平行線をたどった短い会話は、それぞれの直線を時の最果てまで延長しても二者間の距離は微動だにしないばかりか、その間にはマリアナ海溝よりも深い溝があり、その深淵の入り口ですらもはや誰にも覗き込むことができない。そして、深淵から我々を見つめる存在の有無すら知る由もないのだ。
……という訳(?)で、今回は趣向をちょっと変えて村上春樹風の文体で書き始めてみましたが、当の本人がいい加減気持ち悪くなってきたのでここらでやめておきます。
先日、某所で上記のパスタを堪能していた時、ふと大学時代を思い出しました。当時、財政状況によっては市販の明太子ソースの素1人前を特売のパスタ2人前にあえて食べることもありました。最後の方はほとんど味がしなくなった記憶は鮮明に刻まれているらしく、今でもたらこや明太子系のパスタを食べると、最初の一口目で「ちゃんと味がするなぁ!」と感動したりします。
熱帯夜に友人がスイカを一玉持って遊びに来てくれて、‟死ぬほどスイカを堪能する”という子どもの頃の夢を実現すべく、ワイルドに包丁で2分割してスプーン片手に挑んだのですが、半分を過ぎたあたりから二人とも気分が悪くなったのもいい思い出です。
上手く表現できないのですが、食に関する根本的な‟さじ加減”というか‟節度”みたいなものを社会に出る前に身をもって学べたことは大きな財産だったと思います。