大澤 秋津 official blog

或る市民ランナーの内省録

干支一周分巡った世界の中で

 12年前の午後2時46分頃、僕は大型プリンターの前で編集を終えたばかりの自分の春期講習テキストの印刷を見守っていた。

 僕の立ち位置は職員用入口の近くだった。これまで経験したことがないレベルの突然の揺れに対して「まずは入口の確保だ!」と頭よりも身体が先に反応していたらしく、重い鉄製のドアを開け、次いで外のドアを開けて路上に出た。自分が目にしている光景は映画や漫画ではなく、自分の今立っている世界の全てがこれ程までに揺れ動くことが、ただただ信じられなかった。そんな僕の後頭部付近を剥離して落ちた壁の破片がかすめていった。

 その日の夜からの原発事故の、特に放射能という完全に不可視の恐怖に対しては心底怯えた。こんなことが本当に起こっていることが信じられなかった。

 震災から12年ということらしいが、僕を含めあの“現場”にいた当事者の記憶は未だ鮮明だ“風化”なんて言葉は、直接生命の危機にさらされることがなかった人間の、観念としての記憶にのみ適応されるものだと思っている。あの日から、そういう無意識の甘えを含んだ無反省の言葉は意識して使わないように心がけている。

 震災から数日後、父親の治療継続のため家族で愛知県豊橋市へ避難することになった。新幹線が止まり、電力調整のため信号機も動かなくなった状況での移動は困難を極め、なんなら短編小説が一本書けるくらい波乱ずくめだった。東京駅までは、この国全体で事態の重大さを共有しているような空気があった豊橋に到着し、ホテルで夕食をとっていると(確か広東料理だったと思う)、付近のテーブルからの「どうもあの辺りは大変なことになっているみたい」という言葉が僕の後頭部付近をかすめていった。

 豊橋駅では連日、大学生や高校生たちが募金活動に声を枯らしていたが、それ以外の通勤者たちとの間にはっきりとした温度差があった。発売されたばかりの雑誌に、当時好きだった作家の「震災から1週間、そろそろ復興だ」という言葉を目にし、もし故郷に戻れたら彼の著作は全て捨てようと決意を固めた。

 世界史を学ぶ中で「国家は時に国民を犠牲にする」という歴史はさんざん目の当たりにしたつもりだったが、まさか自分が政府から見殺しにされる可能性が現実にあるとは、その時まで認識できていなかった。そして、(自分も含め人間の想像力なんてものは無限どころかとてつもなく狭隘で、自分を棚に上げていることすら気づかずに人命よりも経済を盲信する人間たちが予想以上に多いということも学んだ。

 

 家族を豊橋に残し、避難から約1週間後、僕は一人郡山へ戻った。臨時の高速バスの隣に座った高齢の避難者の方とお話をしている最中、須賀川の道路沿いの工場の惨状に言葉を失った。帰宅後、普段見ないTVをつけると福島県民の歌が流れていた。ちゃんと歌詞を認識したのはその時が初めてで、素晴らしい歌だと思った。その日の夜、入浴中に震度4強の余震が襲った。

 

 復興を始めた街の中で、英語講師の自分には何ができるのかずっと自問自答していた。当時は「自分の出番はこの後だ」という暫定的な答えと、教育復興というぼんやりとした概念しか描けなかった。この時の反省から、コロナ禍に際しては、「教育を止めるな」という理念を行動に移した。

 

 あれから12年たった世界は、福島をどこかで置き去りしたまま緩やかに復興しつつ、今日もデジタルな繋がりの裏側で深く分断され続けている。そして、一英語講師として何よりも耐えられなかったことは、この県の英語レベルがいつの間にか全国最下位にまで落ちぶれていたことと、この惨状に自分は何もしてこなかったこと

 本来自分は最高レベルのサービスを提供すべきポジションにいながら、何ら地域への貢献ができなかったこの際、一切言い訳はすまい。全国との英語格差を是正すべき責任ある立場にありながら、むしろその格差を深めるような質の低いサービスの拡大に何もできなかった。

 

 映像授業の全てが悪いとは決して思わない。50点にも満たないような低レベルの生の授業や学生バイトの個別指導よりも、たとえ60点かそこらの映像授業でも得るものは確実に大きい。何より“教科担当ガチャ”から救われる生徒は確実にいる。ただ、経営的な理由教員の実力不足による“授業ができない”という実情を“授業をやらない”という看板で虚飾した場所がこれ以上増えたところで格差は是正されない。コンサルタントという名の“盗品市場”が場末で横行することに目を瞑れば、それこそが英語教育の地方格差の根源の一つだ。 

 

 あの日から干支一周分巡った世界の中で、まずは今の自分にできることにフォーカスし、そこから再び歩み始めようと思う